第七話 スロバキア人の「聖地」バンスカー・ビストリツァ
平成28年9月20日
スロバキアの町々を歩いていると、やたらと「SNP」という名前の地名にぶつかります。「SNP橋」、「SNP広場」云々。意味が分からないままに、中世の街並みが美しいこの国にしては、ずいぶんと味気のないネーミングだな、と思っていたのですが、最近になって、はじめてその理由がわかりました。SNPとは、Slovenské narodné povstanie、英語にすればSlovak National Uprising,で、「スロバキア民族蜂起」を意味しているのです。
ヨーロッパの中心、戦略的な要衝に位置するスロバキアは、古代より近現代に至るまで、周辺の数々の他民族に侵略されたり、その勢力下におかれてきた複雑な歴史を持っています。20世紀初頭には、オーストリア・ハプスブルグ帝国の支配下から脱し、第一次世界大戦後にはチェコとともに「チェコスロバキア共和国」が作られました。しかしその後、欧州においてナチス・ドイツの影響力が拡大していく中で、チェコスロバキアもその影響下に入り、1939年には新たに「スロバキア共和国」が作られます。形式的に言えば、スロバキア人による独立国家が歴史上はじめて作られたようにも見えますが、実は同「共和国」はナチス・ドイツに押し付けられて作られた傀儡政権でした。スロバキア共和国は枢軸国として第二次世界大戦に巻き込まれていくことになります。
第二次世界大戦末期、1944年に、一部のスロバキア軍人達や、スロバキア人パルチザン、宗教指導者達など、多くのスロバキア人達が、スロバキアの真ん中、山岳地帯にある町、バンスカー・ビストリツァを中心に、反ナチス、ドイツ傀儡政権を倒すための蜂起を起こしました。これが、SNP、すなわちスロバキア民族蜂起であり、様々な抵抗と犠牲、紆余曲折を経て、スロバキアはナチス・ドイツの支配から脱しました。この結果、第二次世界大戦が終結した時点で、スロバキアは敗戦国側ではなく、戦勝国として認められることにもなったのでした。その後、今度はソ連の影響力の下でスロバキアは、チェコ・スロバキア連邦共和国の一部となります。しかし冷戦の崩壊に伴い1989年の同連邦の体制転換を経て、1993年には同連邦から分離独立した民主主義国家としての新たなスロバキア共和国が成立、2004年にはEUのメンバーとなり、2009年には中・東欧諸国の中でいち早くユーロを導入するなどして、現在は順調な経済発展を続けています。
毎年8月29日、緑豊かな山々に囲まれた、美しく静かなバンスカー・ビストリツァの街で、そのスロバキア民族蜂起を記念する国民的行事が行われます。スロバキアの大統領、国会議長、首相はじめ内外の要人たち、今から70年以上前に民族蜂起に参加した歴戦の勇士たち(今はもうお爺さん達)、そして一般のスロバキアの人々が一堂に集まります。国立民族蜂起博物館に置かれている記念碑の前で、献花を行い、犠牲者を弔うとともに、スロバキア、そして世界の平和と繁栄を祈るのです。
同式典にはスロバキアに駐在する各国外交団も毎年招待され、本年は私も参加しました。大統領、首相等スロバキア政府要人たちの献花の後、各国大使が花をささげる順番となります。一つ一つの花輪には国名が書いたリボンがついており、儀仗兵がそれを掲げます。私も日本を代表して、Japanのリボンがついた花輪を儀仗兵とともに記念碑の前に捧げ、日本人らしく深く一礼をし、祈りをささげて参りました。
バンスカー・ビストリツァはスロバキアの首都ブラチスラバから車で2時間半程度、人口8万人程度の、山間の美しい大学都市です。町中心部、旧市街のSNP広場はブラチスラバの中央広場よりもっとひなびた印象があり、それだけに「ホッとする」度はより濃く、旅行者にとっては一層くつろげるところではないでしょうか。ちなみに、中・東欧の国々には多くの広場がありますが、正方形の広場は中世ドイツの影響を受けたもので、長細い長方形の広場は中世ロシアの影響を受けたものだそうです。日本大使館のあるブラチスラバの中央広場はほぼ正方形(ドイツ型)ですが、バンスカー・ビストリツァの中央広場は細長い形をしています(ロシア型)。
バンスカー・ビストリツァのSNP広場の一端には古い石造りの時計台がたっており、中世の時代から現在に至るまで、時を刻み続けています。私はこの時計台の上に登る機会がありましたが、巨大な「おもり」を使ってその力で塔内にある大きな歯車を回し、その力で鐘楼の上にある時計の長針と短針を動かすという中世そのままの機械が現在でも使われていました。ガイドさんから説明を聞きびっくりしたのが、この時計台を維持し守る役割を、代々一つの家族が担っているということで、今の「時計台守」のお父さん、おじいさん、そのまたひいおじいさんも時計台を守ってきたそうです。
鐘楼の上に上ると、バンスカー・ビストリツァの町を一望に見渡すことができます。眼下には長方形の石畳の広場があり、まわりを色様々なこれまた石造りの古い家々、お店が囲んでいます。町には数多くの教会があり、尖塔がたくさん立っているのが見えます。更に遠く向こうには、雄大なカルパチア山脈の街並みが連々と連なっており、その裾野は町まで迫っています。
そうです、一つ言い忘れましたが、バンスカー・ビストリツァはウィンター・スポーツのメッカとしても有名で、冬にはたくさんのスキー客が訪れるリゾート地でもあります。
ブラチスラバまで来られる機会がありましたら、「小さな旅」でバンスカー・ビストリツァまで足を伸ばされてみてはいかがでしょうか。
文責 日本大使 新美 潤(しんみ じゅん)
ヨーロッパの中心、戦略的な要衝に位置するスロバキアは、古代より近現代に至るまで、周辺の数々の他民族に侵略されたり、その勢力下におかれてきた複雑な歴史を持っています。20世紀初頭には、オーストリア・ハプスブルグ帝国の支配下から脱し、第一次世界大戦後にはチェコとともに「チェコスロバキア共和国」が作られました。しかしその後、欧州においてナチス・ドイツの影響力が拡大していく中で、チェコスロバキアもその影響下に入り、1939年には新たに「スロバキア共和国」が作られます。形式的に言えば、スロバキア人による独立国家が歴史上はじめて作られたようにも見えますが、実は同「共和国」はナチス・ドイツに押し付けられて作られた傀儡政権でした。スロバキア共和国は枢軸国として第二次世界大戦に巻き込まれていくことになります。
第二次世界大戦末期、1944年に、一部のスロバキア軍人達や、スロバキア人パルチザン、宗教指導者達など、多くのスロバキア人達が、スロバキアの真ん中、山岳地帯にある町、バンスカー・ビストリツァを中心に、反ナチス、ドイツ傀儡政権を倒すための蜂起を起こしました。これが、SNP、すなわちスロバキア民族蜂起であり、様々な抵抗と犠牲、紆余曲折を経て、スロバキアはナチス・ドイツの支配から脱しました。この結果、第二次世界大戦が終結した時点で、スロバキアは敗戦国側ではなく、戦勝国として認められることにもなったのでした。その後、今度はソ連の影響力の下でスロバキアは、チェコ・スロバキア連邦共和国の一部となります。しかし冷戦の崩壊に伴い1989年の同連邦の体制転換を経て、1993年には同連邦から分離独立した民主主義国家としての新たなスロバキア共和国が成立、2004年にはEUのメンバーとなり、2009年には中・東欧諸国の中でいち早くユーロを導入するなどして、現在は順調な経済発展を続けています。
毎年8月29日、緑豊かな山々に囲まれた、美しく静かなバンスカー・ビストリツァの街で、そのスロバキア民族蜂起を記念する国民的行事が行われます。スロバキアの大統領、国会議長、首相はじめ内外の要人たち、今から70年以上前に民族蜂起に参加した歴戦の勇士たち(今はもうお爺さん達)、そして一般のスロバキアの人々が一堂に集まります。国立民族蜂起博物館に置かれている記念碑の前で、献花を行い、犠牲者を弔うとともに、スロバキア、そして世界の平和と繁栄を祈るのです。
同式典にはスロバキアに駐在する各国外交団も毎年招待され、本年は私も参加しました。大統領、首相等スロバキア政府要人たちの献花の後、各国大使が花をささげる順番となります。一つ一つの花輪には国名が書いたリボンがついており、儀仗兵がそれを掲げます。私も日本を代表して、Japanのリボンがついた花輪を儀仗兵とともに記念碑の前に捧げ、日本人らしく深く一礼をし、祈りをささげて参りました。
バンスカー・ビストリツァはスロバキアの首都ブラチスラバから車で2時間半程度、人口8万人程度の、山間の美しい大学都市です。町中心部、旧市街のSNP広場はブラチスラバの中央広場よりもっとひなびた印象があり、それだけに「ホッとする」度はより濃く、旅行者にとっては一層くつろげるところではないでしょうか。ちなみに、中・東欧の国々には多くの広場がありますが、正方形の広場は中世ドイツの影響を受けたもので、長細い長方形の広場は中世ロシアの影響を受けたものだそうです。日本大使館のあるブラチスラバの中央広場はほぼ正方形(ドイツ型)ですが、バンスカー・ビストリツァの中央広場は細長い形をしています(ロシア型)。
バンスカー・ビストリツァのSNP広場の一端には古い石造りの時計台がたっており、中世の時代から現在に至るまで、時を刻み続けています。私はこの時計台の上に登る機会がありましたが、巨大な「おもり」を使ってその力で塔内にある大きな歯車を回し、その力で鐘楼の上にある時計の長針と短針を動かすという中世そのままの機械が現在でも使われていました。ガイドさんから説明を聞きびっくりしたのが、この時計台を維持し守る役割を、代々一つの家族が担っているということで、今の「時計台守」のお父さん、おじいさん、そのまたひいおじいさんも時計台を守ってきたそうです。
鐘楼の上に上ると、バンスカー・ビストリツァの町を一望に見渡すことができます。眼下には長方形の石畳の広場があり、まわりを色様々なこれまた石造りの古い家々、お店が囲んでいます。町には数多くの教会があり、尖塔がたくさん立っているのが見えます。更に遠く向こうには、雄大なカルパチア山脈の街並みが連々と連なっており、その裾野は町まで迫っています。
そうです、一つ言い忘れましたが、バンスカー・ビストリツァはウィンター・スポーツのメッカとしても有名で、冬にはたくさんのスキー客が訪れるリゾート地でもあります。
ブラチスラバまで来られる機会がありましたら、「小さな旅」でバンスカー・ビストリツァまで足を伸ばされてみてはいかがでしょうか。
文責 日本大使 新美 潤(しんみ じゅん)