第二十話 チュノボ湖で寒中水泳

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   春、夏、秋、冬の四季の移ろいがあることは、その国の自然や文化、そして生活に様々な影響や彩りをあたえています。
 
   日本にもスロバキアにもそれぞれ四季がありますが、日本と比べると、スロバキアでは、特に秋の期間が短いような気がします。首都ブラチスラバでは8月終わり頃までは暑さが続き、半袖で過ごしていたのが、9月に入るとするすると気温が下がりだし、秋風が吹き出して木々の葉が散り始めます。9月末に入ると、朝晩の気温が摂氏10度以下まで下がり、早朝には吐く息が白くなって、手袋がほしくなるような寒さになる日もあります。
 
   東京では9月後半の次点でもまだ残暑が厳しいのが常で、10月に入ると初めて木々が色づきはじめ、ようやく秋が足音を立ててやってきます。「日本人はせっかち」というのが世界における一般的なイメージですが、すくなくとも秋という季節については日本よりスロバキアの方がせっかちで、慌ただしく冬へと通り抜けていくようです。
 
   今回ご紹介するのは、ブラチスラバ市中心部からドナウ川沿いにバスで20分ほど走ったところにあるチュノボ湖です。この湖はドナウ川水系の水により作られており、外周を歩くと大体30分位の大きさです。真ん中に遊歩道が通っていて大湖、小湖の二つに分かれています。
 
   このチュノボ湖が素晴らしいのは、まず、周りが広大な森に囲まれていて道路も人家も全く見えない、雄大な大自然の中に位置することです。そして更に素晴らしいのは、この湖の近隣には車を駐車できるようなスペースが殆どなく、遠くからジョギングやハイキング、あるいは自転車で時間をかけてくるか、さもなくば湖から約1キロメートル程離れたバス停留所で降りて、そこから小道を徒歩でこないとアクセスできない、ということです。
   すなわち、人がなかなか行きにくいところにあるが故に、観光客の足で踏み荒らされることも少なく、自然が本当に好きな、限られたハイカーやジョガー、サイクリストが行くだけの「隠れ家的」な湖になっている、という訳です。
 
   私は仕事の関係で知り合ったスロバキア人の知人にこの湖の存在を教えていただきました。私と同年代の彼女(政治家)はチュノボ湖から少し離れた村に一家で住んでいるのですが、毎週末になると自宅からジョギングでこの湖を訪れ、走って汗をかくと、季節を問わず(真冬でも)、湖に飛び込んでしばらく泳ぎ、その後また走って自宅まで帰る、とのことでした。彼女は、湖のどのあたりで泳いだら良いか、あるいは泳いではいけないか、ということも教えてくれました。
 
   日本では、プールや海で泳ぐことは良くありますが、湖や川で泳ぐ、ということはあまり聞いたことがありません。特に東京ではそのような場所を見つけることは難しいでしょう。私はこの、ジョギング+湖に飛び込んで泳ぐ、という話にすっかり魅入られてしまいました。
 
   その次の週末の土曜日、家内と一緒にバスに乗って、早速チュノボ湖に行ってみました。バス亭を降り、湖へと向かう人気の無い小道を歩いていると、黒いラブラドール犬を連れた若いスロバキア人の女性と会いました。どうやら同じバスに乗って湖へとやってきたようです(注:スロバキアでは犬を連れてバスに乗ることが可能です)。先方にスロバキア語で挨拶をすると、なんと向こうから日本語で返事が返ってくるではありませんか。彼女は日本にも留学経験があり、現在はブラチスラバにある大学の日本語学科で日本語を教える先生。毎週末、犬を連れて湖まで泳ぎに来ている、とのことでした。スロバキアで日本語を話す人の数は限られています。こんな人気のないところで、偶然の出会いとはあるもので、本当にびっくりした次第です。
   道々、彼女に色々と教えてもらったところ、チュノボ湖は知る人ぞ知る、水泳の名所で、夏のみならず、秋や冬に寒中水泳に来る人もいるとのことでした。。
   当日の気温は、朝が8度位、日中の最高気温が15度位。日本だったら戸外で水泳をする天候ではありません。私と家内は彼女と別れて湖の周りを散歩しましたが、彼女は、それから30分近く、犬といっしょに湖の中をすいすいと泳いでいました。この気温で冷たい水の中を長時間泳ぐ彼女の気力体力にも感心しましたが、彼女の後にピッタリと張り付いて犬かきで延々と泳ぎ続けるラブラドール犬にも感銘しました。
 
   家に帰ってから色々と調べてみたところ、寒中水泳は、ヨーロッパ、特に北欧やロシア等では健康法の一つとして一部の人に根強い人気を得ているようです。また、中東欧諸国の一部では、キリスト教の一派である東方正教会において、公現節または神現祭(生まれたばかりのイエス・キリストの洗礼を記念する)と呼ばれるお祭りの行事の一部として、寒中水泳が行われることもあるそうです。
   寒中水泳は交感神経を刺激し、血液や体液の循環や新陳代謝を盛んにし、ホルモンバランスを整えるなど、健康には様々なプラスの効果があるようです。但し、冷たい水に突然入ることは心臓や脳はじめ、身体に相当のショックをあたえ危険もありえます。特に自分のような中年、壮年の人にとってはなおさらです。
   ちなみに、寒中水泳をする際は、水の中に入る時間は、その時の摂氏の温度数と同じ数だけの分数にとどめるのが適当、というアドバイスもあるようです(水温10度だったら10分間の水泳が限度)。
 
   その日は湖の周りの散歩だけで家に戻りましたが、翌日日曜日の朝、好奇心を止められなくなり、今度は一人だけで、バスにのってチュノボ湖を再訪しました。バッグパックにバスタオルと着替え一式を入れて担ぎ、バス停を降りると軽いジョギングで湖に向かいます。人気のない湖畔につくと、早速水着姿になって、砂地の岸辺を裸足でそろそろと湖の中に入っていきました。
   水は肌を切るような冷たさであすが、しばらく身体を水に浸してその冷たさになれてから、えいや、と泳ぎ始めました。水はガラスのように透明で、湖底が透けてよく見えます。空は底の抜けるような青空。一旦水に入ってしまうとその冷たさに身体が慣れて、身体がかっかと火照ってくるように暖かくなってきます。気持ちよくなってどんどん湖の中心の方に泳いでいきました。
   しかしながら泳ぎ始めてから5分くらいたつと、広さも、深さも良くわからないこの湖の中で、自分がただ一人泳いでいることが段々不安になってきました。見渡す限り周りにはだれもおらず、もし足がつったりトラブルが生じても、助けを求めることはできません。あわてて岸辺に向かって戻りだし、無事に陸地にたどり着くことができました。
   岸から上がると秋風の冷たさで身体に鳥肌が立ちましたが、タオルで身体をぬぐい暖かい服に着替えると、身体中の血液の循環が良くなったのか、ポッポと身体が火照るようできわめて爽快でした。
 
   人っ子一人いないこの湖で泳ぐのは、全部「自己責任」です。万が一事故に遭っても、溺れても、だれも助けてくれませんし、だれにも責任を問えません。日本であれば、このようなところは「危険だから」ということで、全部「遊泳禁止」になってしまう可能性が大きいと思います。それどころか、子供が泳いだら危ないから、などの理由から、鉄条網や柵で囲ってしまうことすらあり得ると思います。万が一事故等が発生した場合、湖を管理する地方公共団体や国などの管理責任が問われることにもなりかねないからです。
 
   私から見ると、このいかにもヨーロッパ的な、スロバキアの放任主義、あるいは自己責任主義ともいえる姿勢は、は、おおらかで気持ちよいもののように感じます。しかし、多くの日本人の方々は違う感情を持つかもしれません。どちらが良い、とは申しませんが、やはり日本と比べ、ヨーロッパの方が「個人主義」の度合いが強い文化と言えるのでしょうか。
 
   両国の社会通念や認識の違いを少し感じた次第でした。
 
 
   【なお,本信は同湖での遊泳を慫慂するものではなく,万一の事故等の場合,責任は負えませんので十分に御留意下さい。スロバキアはこれから一層寒くなりますところ、もしチュノボ湖に行かれるのであれば、天気のよい日中を選び、家族や知人とともに、湖の周りを自然を愛でながら散策されることをお薦めします。】


   文責 日本大使 新美 潤(しんみ じゅん)