第二十一話 トレスカ 対 納豆
平成29年10月2日
海外旅行をしたり、仕事や留学などの関係で外国に長らく暮らしていると、自国の料理が懐かしく思えてきます。これは国籍を問わず世界各国の人々にとって共通のことだと思います。その場合、自分の国の料理から長らく離れていても比較的大丈夫な人と、ふるさとの料理が食べられないといずれ耐えられなくなる人、の二種類がいるような気がします。
白状すれば、私は典型的な後者です。仕事柄海外暮らしが長く、外務省に入って以来、フランス、ベルギー、タイ、アメリカ(NY)、アメリカ(ワシントンDC)、アフリカのジブチ、そして今回のスロバキアと通算15年間近く外国で暮らしています。どの国に赴任しても、その国の地元の料理を好きになり沢山味わうようになりますが、それでも一週間に一度か二度は日本食を食べないと、頭がおかしくなりそうになります。海外勤務が本来の任務である外交官としては、十分な素質と適性がないのかもしれません。
今から30年以上前、南フランスに語学留学した際には、とある縁から、モンペリエ市郊外にある裕福なフランス人一家のご家庭に、二年間ホーム・ステイする幸運に恵まれました。料理上手のフランス人マダムの作ってくれる美味しいフランス料理と地元のワインに毎日舌鼓を打ちながらも、日本食がどうしても食べたくなることが時々ありました。当時、南仏には日本料理店はほとんどありませんでした。週末、マダムが外出している隙を見つけてキッチンでこっそりと、日本から送ってもらったうどん(日本のヌードルの一種)を茹でていたところを帰宅したマダムに見つかって、あきれられるやら、怒られるやらしたことを今でも覚えています。
話が脱線しかけましたが、スロバキア人にとって、国外に出たり海外で暮らしたりすると一番懐かしくなる、自国の料理とはなんなのでしょうか?
当ブログの第6話にも出てくる、スロバキアを代表する国民食ともいえる、ブリンゾベー・ハルシュキ(ジャガイモと小麦粉を練って茹でたニョッキに、暖かいスロバキア特産の羊乳チーズを絡め、カリカリのベーコンをまぶしたもの)でしょうか?
スロバキア外務・欧州問題省の副大臣はじめ、幹部の方々と仕事や社交で接する機会に、この問題(?)について提起してみました。彼らの多くはスロバキアの外交官であり、現在は首都ブラチスラバにある本省に勤務していますが、元々海外勤務が長い方々がほとんどです。そうすると意外なことに、ブリンゾベー・ハルシュキと答える人は一人もおらず、圧倒的多数の人が「トレスカ」と答えてきました。
「トレスカ」????
スロバキアに着任以来1年半、首都、地方の様々なレストランでスロバキア料理を食べてきました。スロバキア人の家庭に招待されたことも数知れません。しかし、「トレスカ」なる料理は見たことも食べたこともありません。いったいそれはどんな料理で、どこで食べられるのでしょう。相手に聞いてみたところ、笑いながら、「どこのスーパーマーケットでも売っているよ」と教えてくれました。
トレスカとは、ミンチした鱈(タラ)の身をビネガー(酢)に絡め、玉ねぎやニンジンのみじん切りを加え、その上でマヨネーズと和えた一種のサラダのようなものであり、瓶やパックに入れて売っているものだそうです。スロバキアがまだチェコ・スロバキアの一部で共産主義体制下にあったころ、国内で大量に売られており、スロバキア人の多くが子供時代に頻繁に食べた(食べさせられた)、簡易食品の一種だそうです。
あるスロバキア人高官に言わせると、「特に美味しいっていうことないんだけど、外国に住んでいると、時々無性に食べたくなるんだよなー」ということでした。
「ミンチした鱈の身・・・」、「共産主義体制下に大量に売られていた・・・」、「頻繁に食べさせられた簡易食品の一種・・・」。正直に言って、話を聞けば聞くほど、あまり食欲がわきそうな食品ではありません。スロバキアにはもっと美味しそうな郷土の料理が山ほどあるのに、なんでよりによって海のない「内陸国」のスロバキア人が、魚のサラダを恋しく思うのでしょうか?
百聞は一見にしかず、です。早速、週末にスーパーマーケットに行って見ると、確かに冷蔵品を売っているコーナーに、「トレスカ」が山盛りになって売っていました。一番小さいパッケージを一つ買い求め、自宅で食べてみることにしました。
トレスカのパックを開けて中を見ると、ドロッとした白いマヨネーズ・ソースの中に鱈の身や玉ねぎの細片のようなものが沢山入っています。近くにいた家内に、一緒に試食しようよ、と誘ったのですが、にじり下がっていって、その内どこかに消えてしまいました。うーん。確かに見かけはあまりよくありません。
ひと匙すくって、(思い切って)パクッと食べてみると・・・・
これが意外といける、おいしいのです。酢漬けの魚が入っているマヨネーズ・サラダ、あるいは魚の入っているコールスロー・サラダ、という感じです。朝食でパンといっしょに食べてもいいし、夕食にビールを飲むときのおつまみにもよさそうです。毎日食べたい・・・とまでは正直思いませんが、恐れていたよりは、はるかに普通で美味しい食品でした。ちなみに後に家内にも食べさせたら、「意外に美味しい」との評価でした。
それでは逆に、日本人にとって、海外で懐かしいと思う、食べたいと思う料理はなんでしょうか?
炊き立ての日本米のご飯?味噌汁?お寿司?きゅうりの漬物?お蕎麦?うどん?・・・・
人によってそれぞれ、色々とあり得ると思いますが、私の場合は、納豆です。納豆とはひと言で言えば、煮た大豆をチーズのように良く発酵させたもの。ただしチーズの場合は乳酸菌が発酵の主役ですが、納豆の場合は納豆菌という特別な細菌が働きます。納豆には独特の強烈な発酵臭があることから、日本人でも苦手な人は多く,外国人でこれが食べられる人は稀です。日本在住が長い外国人に聞いても、「食品が腐ったような臭いがする」「日本食は大好きだが納豆だけは食べられない」と拒否される答えが多い所以です。
この納豆に醤油と少量のマスタードを絡め、発酵により発生した納豆の粘り気が泡のようになるまで何十回もまぜ、それに生卵を絡めて、熱々の白いごはんにかけて、一緒に食べます。私はこれが大好きです。
日本人の多くの読者の方々にとっては、食欲が出てくるであろう、このような納豆ご飯についての記述ですが、スロバキアの読者の方々にとっては、「発酵した大豆・・・?」「強烈な発酵臭・・・?」「粘り気をかき混ぜる・・・?」「生卵を混ぜる・・・?」、「食品が腐ったような臭い・・・」、などという叙述から、想像がつかない食べ物なのではないでしょうか。
納豆はスロバキア国内では売っていませんが、ブラチスラバ市のすぐお隣、隣国の首都ウィーンの日本食料品店では簡単に求めることができます。
いままで多くのスロバキア人の方々に日本料理をご紹介してきましたが、「納豆が好き」というスロバキア人に一組だけ会いました。このご夫妻は日本に長年暮らした経験があり、現在はブラチスラバ在住ですが、今でも納豆を懐かしく思い出すことがしょっちゅう、とのことです。
写真は手前がトレスカ、奥が混ぜる前の納豆の写真です。
人間の食文化とは本当に多様で、そして不思議です。
相手の国の地元の食べ物を味わい、好きになることは、その国の文化と人を知ることでもあります。
文責 日本大使 新美 潤(しんみ じゅん)
白状すれば、私は典型的な後者です。仕事柄海外暮らしが長く、外務省に入って以来、フランス、ベルギー、タイ、アメリカ(NY)、アメリカ(ワシントンDC)、アフリカのジブチ、そして今回のスロバキアと通算15年間近く外国で暮らしています。どの国に赴任しても、その国の地元の料理を好きになり沢山味わうようになりますが、それでも一週間に一度か二度は日本食を食べないと、頭がおかしくなりそうになります。海外勤務が本来の任務である外交官としては、十分な素質と適性がないのかもしれません。
今から30年以上前、南フランスに語学留学した際には、とある縁から、モンペリエ市郊外にある裕福なフランス人一家のご家庭に、二年間ホーム・ステイする幸運に恵まれました。料理上手のフランス人マダムの作ってくれる美味しいフランス料理と地元のワインに毎日舌鼓を打ちながらも、日本食がどうしても食べたくなることが時々ありました。当時、南仏には日本料理店はほとんどありませんでした。週末、マダムが外出している隙を見つけてキッチンでこっそりと、日本から送ってもらったうどん(日本のヌードルの一種)を茹でていたところを帰宅したマダムに見つかって、あきれられるやら、怒られるやらしたことを今でも覚えています。
話が脱線しかけましたが、スロバキア人にとって、国外に出たり海外で暮らしたりすると一番懐かしくなる、自国の料理とはなんなのでしょうか?
当ブログの第6話にも出てくる、スロバキアを代表する国民食ともいえる、ブリンゾベー・ハルシュキ(ジャガイモと小麦粉を練って茹でたニョッキに、暖かいスロバキア特産の羊乳チーズを絡め、カリカリのベーコンをまぶしたもの)でしょうか?
スロバキア外務・欧州問題省の副大臣はじめ、幹部の方々と仕事や社交で接する機会に、この問題(?)について提起してみました。彼らの多くはスロバキアの外交官であり、現在は首都ブラチスラバにある本省に勤務していますが、元々海外勤務が長い方々がほとんどです。そうすると意外なことに、ブリンゾベー・ハルシュキと答える人は一人もおらず、圧倒的多数の人が「トレスカ」と答えてきました。
「トレスカ」????
スロバキアに着任以来1年半、首都、地方の様々なレストランでスロバキア料理を食べてきました。スロバキア人の家庭に招待されたことも数知れません。しかし、「トレスカ」なる料理は見たことも食べたこともありません。いったいそれはどんな料理で、どこで食べられるのでしょう。相手に聞いてみたところ、笑いながら、「どこのスーパーマーケットでも売っているよ」と教えてくれました。
トレスカとは、ミンチした鱈(タラ)の身をビネガー(酢)に絡め、玉ねぎやニンジンのみじん切りを加え、その上でマヨネーズと和えた一種のサラダのようなものであり、瓶やパックに入れて売っているものだそうです。スロバキアがまだチェコ・スロバキアの一部で共産主義体制下にあったころ、国内で大量に売られており、スロバキア人の多くが子供時代に頻繁に食べた(食べさせられた)、簡易食品の一種だそうです。
あるスロバキア人高官に言わせると、「特に美味しいっていうことないんだけど、外国に住んでいると、時々無性に食べたくなるんだよなー」ということでした。
「ミンチした鱈の身・・・」、「共産主義体制下に大量に売られていた・・・」、「頻繁に食べさせられた簡易食品の一種・・・」。正直に言って、話を聞けば聞くほど、あまり食欲がわきそうな食品ではありません。スロバキアにはもっと美味しそうな郷土の料理が山ほどあるのに、なんでよりによって海のない「内陸国」のスロバキア人が、魚のサラダを恋しく思うのでしょうか?
百聞は一見にしかず、です。早速、週末にスーパーマーケットに行って見ると、確かに冷蔵品を売っているコーナーに、「トレスカ」が山盛りになって売っていました。一番小さいパッケージを一つ買い求め、自宅で食べてみることにしました。
トレスカのパックを開けて中を見ると、ドロッとした白いマヨネーズ・ソースの中に鱈の身や玉ねぎの細片のようなものが沢山入っています。近くにいた家内に、一緒に試食しようよ、と誘ったのですが、にじり下がっていって、その内どこかに消えてしまいました。うーん。確かに見かけはあまりよくありません。
ひと匙すくって、(思い切って)パクッと食べてみると・・・・
これが意外といける、おいしいのです。酢漬けの魚が入っているマヨネーズ・サラダ、あるいは魚の入っているコールスロー・サラダ、という感じです。朝食でパンといっしょに食べてもいいし、夕食にビールを飲むときのおつまみにもよさそうです。毎日食べたい・・・とまでは正直思いませんが、恐れていたよりは、はるかに普通で美味しい食品でした。ちなみに後に家内にも食べさせたら、「意外に美味しい」との評価でした。
それでは逆に、日本人にとって、海外で懐かしいと思う、食べたいと思う料理はなんでしょうか?
炊き立ての日本米のご飯?味噌汁?お寿司?きゅうりの漬物?お蕎麦?うどん?・・・・
人によってそれぞれ、色々とあり得ると思いますが、私の場合は、納豆です。納豆とはひと言で言えば、煮た大豆をチーズのように良く発酵させたもの。ただしチーズの場合は乳酸菌が発酵の主役ですが、納豆の場合は納豆菌という特別な細菌が働きます。納豆には独特の強烈な発酵臭があることから、日本人でも苦手な人は多く,外国人でこれが食べられる人は稀です。日本在住が長い外国人に聞いても、「食品が腐ったような臭いがする」「日本食は大好きだが納豆だけは食べられない」と拒否される答えが多い所以です。
この納豆に醤油と少量のマスタードを絡め、発酵により発生した納豆の粘り気が泡のようになるまで何十回もまぜ、それに生卵を絡めて、熱々の白いごはんにかけて、一緒に食べます。私はこれが大好きです。
日本人の多くの読者の方々にとっては、食欲が出てくるであろう、このような納豆ご飯についての記述ですが、スロバキアの読者の方々にとっては、「発酵した大豆・・・?」「強烈な発酵臭・・・?」「粘り気をかき混ぜる・・・?」「生卵を混ぜる・・・?」、「食品が腐ったような臭い・・・」、などという叙述から、想像がつかない食べ物なのではないでしょうか。
納豆はスロバキア国内では売っていませんが、ブラチスラバ市のすぐお隣、隣国の首都ウィーンの日本食料品店では簡単に求めることができます。
いままで多くのスロバキア人の方々に日本料理をご紹介してきましたが、「納豆が好き」というスロバキア人に一組だけ会いました。このご夫妻は日本に長年暮らした経験があり、現在はブラチスラバ在住ですが、今でも納豆を懐かしく思い出すことがしょっちゅう、とのことです。
写真は手前がトレスカ、奥が混ぜる前の納豆の写真です。
人間の食文化とは本当に多様で、そして不思議です。
相手の国の地元の食べ物を味わい、好きになることは、その国の文化と人を知ることでもあります。
文責 日本大使 新美 潤(しんみ じゅん)