【大使活動報告】2021年6月25日 コミヤティチェ市でのトリアノン条約100周年記念碑除幕式への出席
令和3年6月25日
6月25日、スロバキア南西部のコミヤティチェ市で開催されたトリアノン条約100周年記念碑除幕式に招待を受け出席しました。
1920年6月にベルサイユ宮殿の大トリアノンで署名されたトリアノン条約は、第一次世界大戦後に誕生した「チェコスロバキア共和国」の国境を画定した条約です。スロバキアにとっては、世界史上初めて国名に「スロバキア」を含む国家の誕生を確定した重要な意味を持ちます。当時日英同盟を締結していた日本は、英国とともに第一次世界大戦に加わり、日本もトリアノン条約に署名しました。このような経緯から、上記の式典に日本も招待を受けました。
コミヤティチェは、その後、1938年のミュンヘン合意により、「チェコスロバキア共和国」の南部がハンガリーに割譲された際には、街の半分がハンガリーとなり、残りが現在のスロバキア側に残ることとなりますが、その後、第二次世界大戦の終了により、再度、街全体が「チェコスロバキア」となり、現在に至るという、数奇な運命をたどりました。このように歴史に翻弄されてきた地を訪れると、歴史を深く知ることの大切さを感じます。
1920年6月にベルサイユ宮殿の大トリアノンで署名されたトリアノン条約は、第一次世界大戦後に誕生した「チェコスロバキア共和国」の国境を画定した条約です。スロバキアにとっては、世界史上初めて国名に「スロバキア」を含む国家の誕生を確定した重要な意味を持ちます。当時日英同盟を締結していた日本は、英国とともに第一次世界大戦に加わり、日本もトリアノン条約に署名しました。このような経緯から、上記の式典に日本も招待を受けました。
コミヤティチェは、その後、1938年のミュンヘン合意により、「チェコスロバキア共和国」の南部がハンガリーに割譲された際には、街の半分がハンガリーとなり、残りが現在のスロバキア側に残ることとなりますが、その後、第二次世界大戦の終了により、再度、街全体が「チェコスロバキア」となり、現在に至るという、数奇な運命をたどりました。このように歴史に翻弄されてきた地を訪れると、歴史を深く知ることの大切さを感じます。
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